富山県(マス寿司県)

富山県は越中一国です。明治4年には西部の一部が七尾県、残りが新川県でしたが、いったん越中全体が富山付近の郡名をとった新川県となり、さらにそれが石川県に併合されましたが、明治16年に独立して富山県となりました。

 

富山に城を築いたのは織田信長の家臣である佐々成政で天正7年(1579年)のことでした。神通川のほとりに築かれた平城で敵が来襲したときには川を堰き止めて防御する構えになっています。

 

佐々成政は豊臣秀吉の九州平定ののち肥後の領主となり、越中は加賀の前田藩領となりました。1640年になり、加賀藩主前田利常の次男利次が10万石を分け与られ富山藩を創設し入城しました。現在、天守閣が復元されていますが、まったく新規のデザインによっています。

 

富山県を代表する産業は製薬で、富山の薬売りで有名。江戸時代中期の宝暦のころから盛んになりました。

 

奈良時代の越中国の国府は高岡市付近で、万葉歌人の大伴家持もここに国司として赴任して多くの歌を詠んでいます。仏具や梵鐘など銅器の産地で、大きな銅鍋を使ってブリの煮物を供する祭りも成功しています。

 

高岡市から隣の氷見市にかけての雨晴海岸では、富山湾を隔てて北アルプスが美しい姿を見せますが、こういう風景は珍しくアンデス山脈を望むチリのバルパライソ海岸と並ぶ世界屈指の絶景です。

 

合掌づくりといえば飛騨を思い浮かべますが、富山県内の五箇山にも多く残り世界文化遺産に指定されています。また、利賀村では合掌づくりの民家を劇場にして世界演劇フェスティバルが毎年開かれています。

 

農産物ではチューリップが日本一ですが、「砺波チューリップ公園」は一見の価値あり。海産物ではホタルイカが特産ですが、土産物としては富山の鱒寿司が有名。

 

室町時代の『人国記』は「越中の人、陰気にして智あり」としていますが、なかなか鋭い見方です。

 

県民性などといってもこじつけたようなものが多いですが、富山県についてはかなりはっきりとした特長があります。勤勉でまじめな生活を送り素直ですが積極的に他人の理解を求めていくということはありません。

 

こうした性格はとくに公務員などには向いていて、大学進学率、東大などへの合格率も高く、霞が関でも旧内務省系の役所に多くの人材を送っています。

 

また、県庁なども中央官庁との共同作業を確実にこなすのが得意で、新しい施策を実験するパートナーとしては最適です。

 

外食や遊興は少なくとも県内ではあまりせず、住宅の面積は日本一。読売新聞中興の祖である正力松太郎はここの出身で、読売新聞は北陸支社を高岡に置き、読売ジャイアンツも県内で試合をよく催しています。

 

安田善次郎(安田財閥)、浅野総一郎(浅野セメント)、青井忠治(丸井)、河合良成(小松製作所)、大谷米太郎(ホテルニューオータニ)、黒田善太郎(コクヨ)など堅実な実業家も多く出しています。女性の有名人では上野千鶴子、左幸子、野際陽子と自分の考えをきっちり打ち出す知性派が目立ちます。

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